昭和56年12月24日 朝の御理解
御理解第70節
「人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」
おかげさえ受ければ何様でもよいと、又それが信心のように思うておる。成程もっともな教えがある、そのもっともな教えを究明していくと、道理に合わないことに気付かせてもらうね。
只教えが良いから、おかげを受けるからと言う仏様だ神様だと言うのは、これは教祖の御信心から言うと道理に悖る事になるのです。どう言う大宗教と言われるキリスト教とか仏教と言ったような宗教しかも何千年と言う歴史をもっておると言うても、成程教えはまあよいようにあるのです。悪い事は言うてはないけれどもギリギリの所にきよると道理に合わない事を言ってあるわけね。
人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよと。してみると、これはどうでも信心させて頂く者、お道の信心を頂く者が確信しなければならない事はね。金光教以外の宗教は道理に合わない信心だと、もう言い切っていいと思うですね。いわゆるここで言われる十全でないのです。
そう言う意味で教祖金光大神、例えばこの御教えを一つ頂いてもね。他の信心はもうみんな道理に合わない、間違っている信心ぞと言わんばかりに教えとられるような感じがしますね。
人間は万物の霊長なんだよと。だから霊長としてのです。いよいよ値打ちを作っていくと言う事が信心であり、そこには行く手に様々な言うならば難しい、言うなら道理に合わない教えがあってよかろうはずはないと言うのですね。
天地の親神様が言うなら生として生きるもの、その中にも人間氏子とこう仰っしゃるように氏子の為にね。氏子の幸福を思われる為に、色々例えば食べ物だけでも作って下さってあるのを、あの食べ物はいけない、この飲み物はいけないと言うだけてもおかしいです。道理に合わない。
どんなに教えが素晴らしいようであってもギリギリの所、言うならば万物の霊長としての人間がさせて頂く、過去のまあ過去と言うか金光教以外の信心はみんなこれにも悖ると言う事です。十全ではないと言う事です。だからそれをね、やっぱ本当にほんにそうだと信じて、まず金光教の信心に御縁を頂いたと言う事をまず感謝しなきゃならない。
しかもそう言う間違いがないと言う事を教えて頂く合楽理念に対する言うならば、もう本当にまあ私のように幸福者があるだろうかと思わして頂けれるような信心を身に付けていかないかん。そこから言うならば何と申しましょうかね。信心に本当の打ち込みが出来るんぢゃないかと思うんです。 おかげさえ頂けばと言うまあ言うなら節度のない人達がありますね。してなかなかよか事ば教えて下さる教えがよいというけども、その教えが段々素晴らしいですけども究明していきよると、人間万物の霊長がと言う事になってくるとそれに悖る宗教ばっかりなんです。それこそ天上天下唯我独尊とお釈迦様のお言葉だそうですが、もう私は金光教以外ない金光教の中でも合楽理念をマスタ-する実験実証する以外ないと言うならば完璧の教えだと。
人間が万、人間万物の霊長としての人間がさして頂く宗教はもうこれに極まったと言う様なその極まりが、まず皆さんに出来ないとね。本当にそんな有難い信心を頂いとるか、どうかを分からんなりに只おかげを頂くけん位で合楽に御縁頂いたんでは勿体ない感じがしますね。
そこでふんなら人間は万物の霊長だから万物を見て道理に合うと仰っしゃるのだから。万物を見てその道理に合う、万物を見て道理に合うその道理を説かれるのですから、その道理に基づく又生き方をしなければ又同じ事だと言う事になりますね。
合楽で説かれる合楽理念が十全の教えであると言う事はまあいろんな場合にいろんな角度から説きますからね。問題は私はそれを信ずる事だと思います。あー何々様とか何々教でなくてよかった。本当に合楽に御縁を頂いたと言う事はこれはもう大変な事だなとまず気付かせてもろうて、その大変な信心にしていかなければ大変なおかげとお徳を受けさしてもらえる手立てを道理に合う教えによって教えを身に付けて行って、いわゆる霊長としての値打ちね。いうなら霊光輝くと言う事になりましょうかね。
それを生神を目指すと言う事になるしね。霊光と言うのは私は私共自体に言うならば光はないのだけれどもね。私共の心が万物の霊長としての値打ちを作る。その値打ちを作る事の為の信心、それをまあ端的に言うとお道の信心は「本心のたまを研くものぞや」「日々の改まりが第一ぞ」と教えられる。そう言うほんなら研く事はどう言うふうにするのか、改まっていくとはどう言う事なのかと言う事を誰でも改まっていける。誰でも研く事が出けるような手立てが説いてあるのが合楽理念ですね。
ですから、いわゆる霊長としての値打ちが段々ね。そこの言うなら信心がないとです。いかに万物の霊長と頑張っておっても威張ると言う事もなかろうけれどもね。まあ自由しとってもね、霊光もない、言うならば鈍なと言うかね。 それこそいつか昔頂いた御教えの中に例えば冷血動物と言われるあの蛇とか蛙と言ったような物でもね。降る照るの事が分かると言うぢゃないかと言うね。人間が降る照るの事一つ分からないと言うのはどう言う事か霊長としての値打ちと言うかね。霊徳と言うかね。それが光を伴って霊光ともなるようなおかげを頂いて行くと言う事がいわゆるあの生神金光大神を目指す事なんです。
そう言うおかげを頂いていけれる手立てがね結局万物の霊長としてのまず自覚がいる。そして万物の霊長としての値打ちをいよいよ作っていこうとね。我情が出け我欲が出け、それこそ人面獣心と言うようにです。形は人間だけども、心はお粗末な事になっておったりね。獣心の言うなら獣のような心に成り果ててしまって。
言うならば汚れ果ててしまって、その汚れ果ててしまっただけならよいけども、性が変わってくる、人間の性とは思われないような性に変わってしまうね。これは例えば何でもそうですね。きれなんかでも、こう汚れに汚れてしまうとそこから性が変わってビリビリするようになるでしょう。同じ事です。
人間もここん所を気付かないで只自分の我情我欲いっぱいで過ごして行く人達はもう間違いなく性が変わってしまいます。だからこの万物の霊長としての値打ちを私は作ると言う事。これはお道の信心をさせて頂いておれば皆そこに焦点をおいて日々の改まりと言う事やら、本心の玉を研くと言う事にですね。まあ専念致します。
そしてそこから光を感じるし又力を神様の絶対心がいよいよ強うなっていくわけですけれども、私は思うのにね。こう言う大変な教えを教祖金光大神が仕立てられて金光教の御神縁を頂く人が全部言うならば取次者にならせて頂かなければならないと言うふうに思うです、はい。
総取次者と言ったような言葉が以前流行り…流行りと言うのが教団でも言われた時代がありますよね。けれどもそれはあのー私が言おうとしておる、あのこれはもうこう言う素晴らしい、こう言う人間として当然言わば言うならばしかも十全の教えをです。世界中の人達に広げていく為には金光教の御信心を頂いた人全部が布教者になる、取次者になる。そしてこの絶対のいわゆる十全の教えを世界万国それこそ津津浦浦に広げていく。
そう言う一つの自負と言うか責任と言ったようなものを各々一人一人が感じれるようになる。そう言う意味でお道の教師にお取立て頂くと言う事は大変な事だと思うです。だから本当言うたら皆の一人一人がそう言う自覚に立ってですね。 この絶対の教えである十全の教えを人に伝えていく為にはその十全の人間万物の霊長としての値打ちを作っていくその手立てを本気で頂いて、霊長としての値打ちを発起できるようになって、それによって言うならば人に伝えていくと言う、私今日はここん所を頂きましてですね。教祖の神様はその円満な表現しかなさっておられませんけれども、もうこれはね。人間は万物の霊長だから万物に合う、万物の霊長なんだから霊長としての値打ちのある信心、道理に合う信心でなからなければ駄目だぞと仰っしゃっとられるわけでしょうが。
してみるとほんなら何々教は大きいから何々教は教えが沢山あるからとだけではいけないち言うこと。その教えを究明していきよると必ず息詰まる。言うなら道理に合わない話が出てくると言う事ですね。そう言う意味でもう言うならば極めれば極めるだけ有難うなっていくと言うのが金光教の信心です。
極めれば極めるほど分からんようになってくると言うのが他宗教です。だからそれはねまあ結局親先生が我田引水にもう我もん宝でと言うふうな頂き方せずに各々が本当にそうだと分かって、そして本気で本心の玉を研く事にね。言うならば日々の改まりが第一と言う事に昨日のお説教の中にも申しましたが。 鳥栖の上野さんとこの娘、中島さんと言う今どっか太宰府の近所におられますが、昨日お参りして来て頂いてお届けのあった事を皆さんにも聞いて頂きましたように。私共が信心をさせて頂、道理に合う信心をさせて頂いておるとそこに神様の働きをね。実感せずにはおれないね。
それ昨日の場合はもう本当におかげのまあ有難いと言う意味あいでですよ。あのまあ聞いて頂いたですね。娘さんがアルバイトをしたいと言う。そいで近所の太宰府ですから梅ヶ枝餅を作られるお家がずーっとある。だからそこので雇うて貰おうと思うて行ったけどももう遅くてどこも閉めてあった。一軒だけあいとった、そこでお願いをしたら、こりゃあまあ今から正月で大変忙しゅうなるから休んで貰ったりしては困りますよとこう言われた。
けども、いやあ休みませんけれども正月の二日の日だけは休ませて下さいと。どうしてですかと。御本部参拝せんなりません。御本部ちはどこですか。金光教の御本部です。あらあなた金光教の御信心しなさっとですかと。私は二日市の信者で今私はあの百年祭の旅費を納めて帰って来たばっかりのとこであった。 だからもう閉めてあったけども少しばっかり店があいとったち言うわけ。あーあもうよかどこぢゃないふなら二日の日だけは御本部参拝してらっしゃい。そしてからいつからでも良いから来て下さいとこう言うね。もう本当にあの何て言うでしょうかね。置いた物を取るような働きと言うか、おかげをそこに感ずるわけ。
帰ってお母さんがそしてお手当てはどげな風に決まってきたかってこう言われるから。もうお母さん手当てとか何とかち言う事ぢゃないぢゃないの。これほど神様のお働きを受けてからの事だからと言うたら。ほんにそうぢゃったねと言うたと言うお話を昨日しましたね。
そう言う働きを受けての言うならば日々が頂けれるかと言うて、ほんならそう言う置いた物を取る様に有難い有難いでばっかりが続くかち言うとそれとは反対の事もやっぱあると言う事。
あちらの御主人と言うのはちょっと間違うともう大変な癇癪もちでね。先だってからもこの寒いのにその何が気にいらんぢゃったか知らんけれども。もうその暴力をふるわれる。そしていわゆる叩き出すと言うわけですか、出て行けと言われる。ほんなら寝巻一つで外へ放り出された。そう言う事はちょいちょいあるんです、中島さんの所。ところがね。日頃頂いとる一切神愛、いわゆる合楽理念に基づくとです。これはとても主人ぢゃない。神様が修行を求めておられるんだ。本当にまあ、どうした主人ぢゃろかとは思わない。
それをまあ神様の御仕打ちとして頂いてるんです。ほいでやっぱ一、二時間しとったらやっぱ心配になってその外へ出てきなさったそうです。ほいでようやく入らせて頂いて、本当にもう布団の有難さ暖かい布団の中に休まれるち言う事は、もうこげな有難い事はないですよと言うて寝んだと言うのです。
ねだから合楽理念に基づくとね、もうそう言う事が本当に分かって来るんです。決して良い事ばっかり有難い事ばっかりと言う事ぢゃないのです。けどもその普通で言うなら悪い時、どうした主人ぢゃろかと言う、そんどうしたと言う所へこうして神様が育てて下さるち言う心が生まれてくるのです。それを神様のお仕打ちとして頂く感ずる事が出来る、そう言う教えが合楽理念には説いてあるでしょうが。
だからそう言う所も又たどらしてもらう、稽古さしてもらうと言う生き方にならんと霊長としての値打ちは光は出て来ないね。合楽理念の実験実証と言う事はね。言うならば実験実証が損になって表れて来る事もあるのです。けどもその出た所をね。いかにして受けるか受けねばならんかね。言うならばその神愛の内容をつまびらかに説いてあるのが合楽理念です。
ですから都合の良かごつだけち言う事ぢゃないけれどもです。言うならこういう大変なです。もうそれこそ前代未聞の宗教だと私は言う。宗教以前の宗教だと私が言うておる、それを本当な事にそうだと分かる為には、今の様な所もやはり通りたどらして貰わねばならないと言う事。そしてはじめて成程十全の教えだなあ。成程一切が神愛だなと言う事が分かるのです。
万物の霊長としての値打ちがいよいよ発起できれるようなおかげを頂いて、そのおかげをです。それも人に伝えて行くと言う事。皆言うならばまあ言うならば合楽に御縁を頂いとる人以外は皆間違った信心をしておると言う事にも言うてもいいでしょう。
ふんなら合楽の御信心を頂いておっても、合楽理念をマスタ-しておっても、それを実験実証しなかったら、又理屈は同じ事ね。それがね、ならこう言う大変な宗教だ、教えだと言う事をまず分かる為にもね。いわゆる十全のおかげの頂ける為には十全の言うならば、十全と言う事は一切神愛を受けられる心のだと私は思うです。
そこに一切神愛としての働きが生まれて来るわけですね。この信心するならあれは食べちゃならん、これは飲んぢゃならんと例えば言う様な事のない、成程人間万物の霊長がさせて頂く宗教はもうこれだ、これに極まったんだと皆さんがまず頂かせてもろうて一人一人がですね。取次者になった気持ちでなくて、取次者にならなければいけんです。これほどしの教えを例えば十人か二十人の先生が説いた位な事ぢゃでけん。
もう兎に角まあ金光教に縁を頂いた人達が皆その自覚に立って、言うならばまあキリスト教的に言うと選民の中の選民と言う言葉がある。選民私共はその選民の中の選民だと言う位な自覚が出来て来る信心を頂きたいですね。
それには今日皆さんが今日の御理解、私がこげん重みをもってこの御理解を感じた事はなかったです。ほうこの御理解だけでも、もう言うなら過去の宗教はもう絶対間違っておる。教えがよいの、おかげが頂けるのと言うだけならばそうかもしれません。
けれども万物の霊長として人間がさして頂く宗教、信心には他の宗教の全てが悖るんだと言う事をです。私今日ほどここで分かった事はなかです。だから私の分かった事を皆さんにも分かって貰おうと思うて、こうまあ説いたわけなんですけれどね。
金光教の信心ちはそう言う素晴らしい信心なんです。にはどうしても万物の霊長、だからと言うて霊長の値打ちがあるとは限らないのです。その霊長の値打ちをいよいよ霊長の値打ちたらしめれる教えを私合楽理念に求めて本気でおかげを頂きたいね。
そしてもう日々良い事、悪い事につけてです。一切神愛本当に神様の働きをそこに感じれれるような信心を頂きたいね。そこに私はお道の信心の値打ちがある、そう言う値打ちあるものを人に又伝えて行く一つのね。皆さんが責任を感じられるね。そこにいよいよ合楽示現活動に参画さしてもらわずにはおれないと言う事にもなって来るのぢゃないでしょうかね。「どうぞ」